2011年 夏 「子供とやすらぎの泉での日々」 井上真理子さん
「福島第一原発」「放射能」「地震」
5歳児が言うとは思えないこの言葉を、娘は使うようになりました。
あの事故があってから、私の不安が娘に移ったのか、頻繁に手を洗うようになり止めてもやめられない手の甲が赤く切れてきても、まだ手を洗い続ける娘、、、どうしたら良いのだろう。
私も、水を気にしたりお店で関西、九州の野菜を探したり、でもあまり種類がなく途方にくれる買い物、何もわからずに砂場の土を食べる2歳の息子の対応に疲れていた頃、疎開という選択があることを知りました。
不安の中、おいでんせぇ岡山に連絡するとすぐに担当のKさんから電話を頂いて、不安と焦燥感、迷いなど話はじめると次から次へと出てきます。
Kさんは、その話を遮るでもなく丁寧に聞いてくれました。
そして、すぐにシェアハウスの話を頂きました。
最初は「全く行ったことの無い知らない土地で、知らない人と暮らすなんて大丈夫なんだろうか?」という気持ちでした。
友達何人かに話すと
「共同生活、きっと大変だよ」
「そんなに郊外へ行って子供と3人どうやって時間を使うの」
という感想でした。
「じゃあ、私はどうしたい?東京にいたい?出たい?」と自分自身に問いかけると
「居たくない、出たい」
「何年かして自分が一番後悔しない選択は何?」
「子供を連れて岡山に行くこと。大変とか楽しくないとかそうゆうことじゃなくて、例えそこがどんなとこであっても生活する」
という答えが出てきました。
そして、自分の気持ちが変わらないように周りに 「この夏は岡山で生活するから」と宣言してみました。
それでも
「お化け屋敷みたいな古民家だったらどうしよう?汲み取り式のトイレに子供は行けるかな?」
「近所の方、周りの方はどんな人なんだろう?」
色々な不安と妄想が出てきました。
実家の父からは
「3日間で帰ってくるに違いない」と言われ、
母は
「考えているだけじゃわからないから、どんなところか行って来たら」と
はなむけの言葉?をもらい出発の時がきました。
主人と二人で交代で運転して、9時間ほどかけて岡山へ着きました。
シェアハウスやすらぎの泉に入居する初めての家族として、Kさんご夫妻、延藤さんご家族、おいでんせぇスタッフの方々が夕食を用意して待っていてくださいました。
見ず知らずの私たち家族の為に、そこまでして頂いてとても嬉しく感謝の気持ちでいっぱいでした。
お料理はどれもとても美味しかったです。
もう、みなさんと会ってお話した時点で私の不安は消えていました。
古民家は趣きがあり綺麗で私が想像していたお化け屋敷では全く無く、トイレも温かい雰囲気をかもし出していて心地よく、
そして由実さんが「自分の大切な家族や友達がきて快適に暮らせるように」という気持ちで準備してこられたとお話をされていたように、家族が着替えくらいの準備できても何不自由なく暮らせるようになっていて細かい配慮に感激でした。
そして多くのボランティアの方が、放射能から逃れてきた母子の為に、このシェアハウスの完成にむけて頑張ってこられたことを聞いて 本当に有難い気持ちでいっぱいになりました。
主人もすっかり安心して2日滞在して、仕事のため電車で帰って行きました。
主人と交代するかのように、同じく疎開母子のWさんの家族が入居してこられました。
これから一緒に生活できることを心強く思いました。
2家族になった、やすらぎの泉は子供たち3人がバタバタと走りまわり仲良くしたりケンカしたり、誰かが、機嫌が悪くて泣いていたり笑いあったり、とにかくにぎやかでした。
3人の個性もそれぞれで、観察しているととても楽しかったです。
食事を食べるテーブルは広いのに、5人でかたまって座って食卓を囲んでいた光景を私は今でも思い出します。
放射能の話もしたけど、子供のこと面白い話もたくさんして本当に楽しかったです。
きっと、共同生活する中での不便さ(共同スペースでの配慮や譲り合い)や家事のやり方の違いはお互いにあったと思いますが、それがあっても共同生活で学んだこと、楽しかったことの方が遥かに勝っていると思います。
23日にはMさん家族も加わり3家庭になりました。
姉妹と一緒に遊べるのを娘はとても喜んでいました。
娘は一緒におでかけに連れて行ってもらったり、一緒にお風呂に入れてもらったり本当によくして頂きました。
この3家庭で過ごしたのは、1週間ちょっと、あっという間でした。
2家族のみなさま、仲良くして頂きどうもありがとうございました。
福島での事故が起こってからの東京での私は、テレビに子供のお守りさせて、自分はとにかく安心安全な情報を探す為にパソコンばかりの日々、主人とは真剣に放射能への影響などを話していると、険しい顔をしているために娘からは、「パパとママ、喧嘩しないで」といわれるような生活、それが、やすらぎの泉にきてから変わりました。
大人3人、子供5人の生活は、本当ににぎやかで、テレビが無くても遊ぶものはたくさんありました。
外には、小さい蛙がたくさんいて、子供はバケツに蛙を入れたり、家の前の川の魚をみたり、鯰を釣ってみたりと自然がたくさんありました。
岡山で、真っ黒にどんどん元気になって、笑顔も多く、自分のそのままをさらけ出し(さらけ出しすぎの日も多々ありましたが)、そんな子供をみていると、岡山に来て本当に良かったと思いました。
そして、あの時の私は、子供のことを一生懸命考えているつもりでも、パソコンの情報に翻弄されて、全く子供を見ていなかったことに気がつかされました。
毎日があっという間でした。
和気町やその周辺の色々なところに出かけて、毎日盛りだくさんで親子共々、充実した日々でした。
本当に貴重な経験をさせていただきました。
このような安心で楽しい毎日が送れたのは、シェアハウスに携わってくれた皆さんのお陰だと思います。
延藤さん夫妻は毎日、様子をみにきてくれたり、イベントに誘ってくれたりなど、色々な細かい事まで気にかけて頂きとても感謝しています。
Kさん夫妻も、今後の暮らしや生き方のことまで色々とアドバイス頂いたり、私たちが快適に暮らせるようにと様々な配慮を頂き本当に助けて頂きました。
Kさんご夫妻と延藤さんご夫妻がされていることは、生半かな気持ちではとてもできない事だと思います。
放射能の不安で疲れて疎開してくる母子の生活を丸ごと受け止める、それは誰にでもできることではないと思います。
見ず知らずの避難者に無条件に親切にしてくれて本気で考えてくれるその姿にとても驚き心打たれました。
目に見えない多くのことを教えて頂いたことに深く感謝します。
また、よく様子を見に来てくれて野菜などの差し入れをしてくれたり、花火大会を企画してくれた近所の方々、ボランティアで本を集めてリビングで子供達が本を読めるようにしてくれたスローな本屋さん、封筒再生委員会の方、やすらぎの泉を心地よく住めるように直してくれたYさん、テラスなどを作ってくれたOさん、その他書ききれないくらいの多くの方々、どうもありがとうございました。
たくさんの元気と明るさを頂き本当に励まされました。
これから、関東はどうなっていくのだろう・・・。
今まだ、その不安で時にやりきれない気持ちになる現実ですが、でも、また少したつと、どんな状況でも子供にとって笑顔の多いお母さんになりたい、頑張ろうと思えるのは、やすらぎの泉で頂いたたくさんの優しさとパワーのお陰だと思います。
このやすらぎの泉での日々、ずっと忘れません。
本当にどうもありがとうございました。
またお会いできるのを楽しみにしています。
その時はどうぞよろしくお願いします。
「やすらぎの泉」での暮らしを振り返って
渡辺 美香さん
私達家族は神奈川県に住んでいます。
子供は2歳の息子が一人で主人と3人暮らしです。
震災後、子供の体調がすぐれないことが多くなりました。
子供はアトピーと様々なアレルギーがあり、以前は出なかった喘息症状と最近は出なくなっていた蕁麻疹が立て続けに出ました。目の回りも真っ赤になりました。
もしかして放射能の影響なのだろうか…?
不安になり、ほとんど外出せず自宅に引きこもる日々。
外出しなければ症状は出ませんでした。
買い物に行ってもスーパーには東北、関東産の野菜ばかり…。
子供は外に出たがる。私は無気力になり横になることが増えました。
母子共に心が委縮してしまい、イライラすることが多くなり限界を感じました。
これが疎開の理由です。
自主避難というと受け入れ先は少なかったので、色々調べましたが、私達母子は7月1日から1ヶ月間の予定で、神奈川県から香川県に疎開しまた。
理由は負担額が一番少なかったからです。
とにかく早く今の生活から解放されたい、その一心でした。
しかし、香川の生活は思ったより過酷で私達(特に子供の生活リズム)には合いませんでした。もっとよく調べれば良かったと後悔しました。
そんな中で以前問い合わせたおいでんせぇ岡山を思いだし、急いで電話をかけました。
聞いてみると検討していたシェアハウス『やすらぎの泉』がまだ空いてるとのこで、すぐに香川から岡山に移動しました。ちょうど七夕の日でした。
期待と不安が入り交じりつつ『やすらぎの泉』に着いてみると、おいでんせぇ岡山の方々や既に住み始めている母子など、皆さんが温かく迎え入れてくれました。
古民家というと古くて崩れそうな家を想像していましたが、確かに古いですが修繕がきちんとされていて清潔感があり、どこかの旅館のような感じがしました。
生活用品や備品も揃っていて着替えさえあればすぐに暮らせるようになっていました。
ここで暮らす人のことを考えて入念に準備してくださったのだろうな、という心遣いが感じられます。
そして古くて大きな家は、何だかおばあちゃんちに遊びに来たような懐かしい雰囲気がしました。張り詰めていた気持ちが解放されていくのを感じました。
テレビやエアコンが無いことも、私が子供の頃に体験した遠い夏の記憶を思い出させます。
毎日のようにテレビを見せてとせがんでいた子供も、テレビが見たい とは一度もいいませんでした。
同じ家で暮らすことになった母子は下の子がうちと同い年という共通点や、お母さんが気さくな方だったのもあり、仲良く楽しい日々を過ごせました。
「うまくやれるかな?」という心配はすぐに無くなりました。
共同で使用するスペースは多少気を使ったりはしますが、子供が騒いでもお互い様ということで気が楽でした。
あと、やはり同じように避難してきたので、普段感じていることなどを話したり相談出来たことが良かったです。
途中から家族が2家族から3家族に増えて、益々賑やかになりました。
子供達は喧嘩もたくさんするけどこうやって成長するんだな、神奈川じゃ体験出来なかったことだな、と感じました。
毎日他人と一緒に過ごし、気を使って疲れるだろうという予想に反し、私の中では安らぎの気持ちさえ生まれていました。これは不思議な感覚でした。
孤独の中から生まれる不安感が無くなったからでしょうか。
イライラすることが本当に少なくなりました。
放射能に関して言えば、私の場合は不思議と岡山に来た時点で、野菜など食べ物を選ぶとき以外はなぜか気にらならなくなっていて、子供の外遊びに抵抗は全くありませんでした。
砂場や川遊びも大いにさせました。
心の大半を占めていた放射能の存在が頭の隅っこにギュッと追いやられほとんど気にならなくなったのです。岡山にいる間は放射能のストレスから少し解放されました。
人とのふれあいや自然が多く開放的な雰囲気が良かったのかもしれません。
とにかく自然がたくさんあって、夏の緑の山々や川や田んぼのある景色に癒されました。
幼い頃に触れた昆虫や植物、川や田んぼの生き物達がまだここには存在していました。
子供達は近くの公園や庭などで砂遊びやビニールプール、虫取りを楽しんでいました。
皆でいろんな場所に出掛けたり、イベントなどもありました。
到着した日の神社の七夕のイベントに始まり、川遊び、花火、山登り、大きな公園、子育て支援センター、農家にお邪魔したり、倉敷観光など盛りだくさんの夏でした。
絵本もたくさんあって、「これ読んで」と子供達は嬉しそうに絵本を選んで持ってきました。たくさん絵本を読み、なんだか幸せな時間でした。
絵本って子供だけじゃなく大人も心が癒されます。
『やすらぎの泉』の周りはスーパーや駅が近くて便利だし、自転車に乗ればちょっと遠くの公園や温泉まで行けます。
子供乗せ自転車はよく使いましたし、ベビーカーも一台あって便利でした。
近くに住んでいる牧師さんの延藤さんもとても親切で、子供が病気になったとき車で病院まで連れて行ってくださいました。そして親身になって病室まで付き添ってくださり大変心強かったです。
遊べる場所にも案内していただいたり、不便なことが無いかいつも気にかけてくださいました。本当にとても感謝しています。
とにかく、周りに住んでいる方達が親切な方が多く野菜などもたくさんいただきました。
都会とは違う良さがありました。
私はどちらかというと他人とは距離を置き、インドア派だったんですが、気がつくと毎日の様に出かけて、子供と走り回っている自分が居ました。
もちろん子供も伸び伸びと遊び楽しい毎日を過ごしました。
登山も一度目は初めての山にびっくりして泣き叫び全く歩かなかったのが、二度目は自分から「歩く」と言い楽しそうに登りました。
子供はまだ2歳で一人っ子ですが、このシェアハウスで他の家族の子供達と楽しく遊んだり喧嘩もしたりして、兄弟のように過ごし、体も心も一回り成長したようです。
子供の持っている個性がここでは伸ばせるんじゃないか、と感じました。
子供を持つ移住者の方に意見を聞きましたら、子育てにはとても良い環境だし、なんと言っても楽だとおっしゃってました。
それを聞いて子育てには岡山のような自然が多い土地の方が適してるんだろうなと思い、主人にそのことを電話で語りました。
主人は放射能は気にしていないのですが、「岡山は子育てに良さそうだな、仕事見つかるかな」と前向きに考えてくれまた。
また、被災者の集まる機会があったり、交流を持ちやすい環境を作っていただきました。
お陰様で関東から避難して来た人達とも知り合えました。
とにかく孤独じゃない、仲間がいるというのは心強いです。
神奈川に帰ってからも連絡を取り合っています。
最初に入っていた母子が『やすらぎの泉』を去っていくとき、わりと長い期間一緒に居たからか親戚と離ればなれになるようななんとも言えない寂しさを感じました。
それと同時に胸にジーンと温かいものが込み上げてきました。
子供も幼いながらも何かを感じ取ったのか、夜になると去っていった子供達の名前を呼びながら泣きました。
そして楽しい日々はあっと言う間に過ぎ去り、気付くと1ヶ月経ってしまいました。
帰ることを考えたときちょっと憂鬱になりました。
子供も神奈川の自宅に帰る前日に『帰りたくない』と言っていました。
神奈川に帰ってびっくりしました。
とにかく人が多いこと。
岡山駅は都会でしたが、その5倍は人が居て、歩くのもやたらと早く、子供は何度も押されました。
そして、人が多いのに皆が押し合っていがみ合ってる…。
岡山ではこのような場面には出会わなかったので驚きました。
「ここに住んでたんだ」
まるで知らない町のように感じました。
そう思うと、今まで自分が都会のスピードや人の多さにすっかり合わせてしまい、心がくたびれてたことに気づくことが出来ました。
これが普通だと思っていた現実。
でも違った、無理をしてたんです。
子供にも無理をさせてたんです。
神奈川に帰って良かったと思えたことは、スーパーには岡山に行く前より少しだけ西日本産の野菜が増えてました。
あと、やっぱり子供が久しぶりに父親に会えて嬉しそうだったことです。
離ればなれになってたせいもあるのか、以前よりも更に子供に優しくなった気がします。
戸惑ったことは、放射能を気にして岡山に行ったのを知ってるはずの義母から、関東産の野菜をいただいたこと。
周囲を見渡すと岡山では当たり前のようにあった山が 遠くに小さく霞んでしか見えなかったことです。
私の中で岡山では気にならなくなってた放射能の存在が、帰って三日もしたらまた少し大きくなってしまいました。でも以前程ではありません。
神奈川の環境が合わないのか、岡山では元気に過ごしてた私は体調をやや崩しがちになりました。でも前と違うのは変な不安感が無いんです。
1人きりで生きてるんじゃない、という安心感が今ではあるからでしょうか。
あと子供は至って元気で相変わらず「外に行く」と言います。
公園では遊ばせる気にはなれませんが、以前よりは外出します。
室内の遊び場中心ですが。
以前は移動するとき外気に触れさせるのも怖かったんです。
主人には岡山がいかに暮らしやすいか、子供が楽しく過ごしたことなどを今度は直接話しました。
子供が逞しくなって帰ってきたことを喜んでくれました。
移住も少しは考えてくれてるようなので徐々に具体的に話して行きたいです。
でも思ったより本気では(現実的に)考えてくれては居ないので、しばらくは母子疎開で岡山や近隣の県を見に行ったりリサーチしようと思っています。
『やすらぎの泉』は子供の命の輝きが増す場所です。
それは大人も同じだと思います。
昔のように隣近所が声を掛け合い生活し、同じシェアハウスの家族同士笑ったり泣いたりして過ごす。賑やかでいつも明るい家の中。
母子共に自然体で過ごすことが出来ました。
人とのふれあいの大切さを知りました。
便利になった反面、心の豊かさを失っていたことに気付くことが出来ました。
本当にここに来て良かったです。
放射能から逃げるために疎開したはずが、いつしか子育て環境に良さそうな岡山が好きになり、そういった理由で岡山に住みたいという気持ちに変わりました。
主人の就職のこともあり、まだ移住出来るかわかりませんが、また神奈川の生活に行き詰まったら岡山に戻ってこようと思います。
おいでんせぇ岡山の皆様に感謝いたします。
ありがとうございました。
「やすらぎの泉」の暮らしから、近くに移住を決めるまで INさん
今までに経験したことのない揺れを感じたあの日以来、私は3人の子供をどう守るか、これからどうなってしまうのか不安な気持ちでいっぱいでした。
それでも、生きていこう、子供を守りたい。
それだけは常に心の中にありました。
目に見えない放射能汚染が自分たちの住む街にも広がる中、それでも何とか地元でやっていけるのではないか、という希望をもち、自治体への呼びかけに賛同し、議会に働きかける署名活動にも参加し、学校にも相談し・・・、結局、何も変わらない事への失望感・・。
不安を口にすると神経質だ、風評被害になると言われ絶望と失望、自然と口数も減ってしまいました。
孤独な中での食材選び、外遊びの制限、参加させたくないと思いながらの学校行・・。
限界を感じ、夏休みを利用し、地元を離れました。
止まらなかった子供のくしゃみ、せき、私の頭痛もピッタリおさまり、子供がのびのび遊ぶ姿を見て、地元を離れて暮らす決心をしました。
岡山には夏休み明けからの短い期間でしたが人とのつながりの大切さを実感する2週間でした。
道行く人に声をかけていただき、他愛のない会話でとても心が温まりました。
「やすらぎの泉」での共同生活は、私たち親子にとってとても刺激的でした。
前向きに生きようとする人たちが集まるとなんて心強いのだろう。
子供同士も社会ができ、子供なりに学んでいるようでした。
そして、私は孤独感や失望感が和らいでいくのがわかりました。
願っていればそれに近づく機会が人を通してめぐってくる、「やすらぎの泉」での滞在では人との出会いそのものが財産になると感じる2週間でした。
縁があってこの岡山にきて、この和気町で暮らしていきたい。
そんな思いで人と接し、物件を見るなかで、一軒家を貸して頂ける事になりました。
先の苦労を考えるより、今を大事に生きていきたい。
逃げてばかりじゃなく、自分の安らげる場所を見つけ、前向きに自分に納得できるように生きていきたい。
そして、何よりもここに至るまでの出会いや人とのつながりに感謝の気持ちでいっぱいです。
この出会いや皆様の支えがあって、岡山に住む決意ができたこと。
これから、子供たちに人とのつながりの大切さをきちんと伝えていきたいと思ってます。
しばらく、夫とは離れ離れの生活が続きますが、「やすらぎの泉」で出会った親子で支え合って暮らしていきたいです。
和気に引越しをしてからの日々の感想です。
INさん
引越しをして新しい生活が始まり、まだ2週間。
やっと私たちの一日の流れのリズムもつかめてきて、日常らしい生活になってきました。
振り返ってみるとこの1ヶ月はとても長い1ヶ月でした。
夫婦の間で「子供を安全、安心な場所でのびのび育て上げたい。」
このことは共通でも、実際、母子だけの引越しとなると一筋縄ではいきませんでした。長年暮らしてきた町を自ら離れるという事も想像以上にエネルギーが必要でした。
目に見えない、臭わない有害物質だけに自分たちだけが大げさなのではないか。今までどおり、気をつけて生活できるのではないか・・・。何度も何度も夫婦間で話し合い、考えました。
どうしてうちだけ引っ越すの?子供の素朴な疑問に真摯に向き合い、親として思っている事をきちんと説明してきました。
今までお世話になったご近所の方々にも自分たちの思いを説明し、引越しのご挨拶をした時、近所の方々も皆、気にして、不安に感じている現状を改めて感じました。
子供を思う親としてはいろいろ悩み、考え、私のように引越しを考える人、そこに留まる人、本当にいろいろな考え方があるのだと痛感しました。
子供たちが転校、転園するにあたり、不安も多かったのですが、近所に同年代の子供も多く住んでいてすぐに友達になりました。
生活して思うことは、まず、子供の遊びが変わりました。
整備された公園はないのですが、町の中で子供たちが工夫して遊ぶのです。それを大人も寛容に見守っている、そんな雰囲気です。今まで幼稚園生までは母も一緒に遊びを見守る状態だったのですが、近所の小学生も一緒に遊んでくれるので子供にずっと付き添う事がなくなりました。
子供だけ遊んで大丈夫?と最初は思ったのですが、地域の方が畑作業をしながら、買い物をしながら、または犬の散歩をしながら子供たちを気にしてくれ、それは駄目だよとか危ないと気軽に声をかけてくださるのです。
おかげで、親の私が注意するよりもよっぽど効き目もあり、上手な遊びができるようになっていると思います。その上、私よりも子供たちのほうが近所の方と顔なじみになりました。よく遊ぶからなお更、よく食べるようになりました。そして、顔なじみになった近所の方が畑で取れたお野菜や庭で取れる果物をおすそ分けしてくださるのです。それが子供たちは嬉しいようで、また本当に美味しいのでしょう。野菜苦手の次男が毎回一口ずつでも挑戦するようになったのです。
また、私と同じように岡山への移住を考えている母子が滞在先がなく困っていると言う話しを友人伝いに聞き、10日間ほど我が家へ泊まっていただくことになりました。
漠然と考えていた、岡山で生活しながら自分にできることをやっていきたい。という願いを叶える第一歩です。
まだまだ大々的に母子を受け入れるまで、環境は整っていませんが、少しずつ自分にできることをやり、より充実した生活を送っていきたいと思います。
被災から今までに感じたこととこれからの未来の希望など 高須 さん
3月11日の午後、突然大きな地震が起こりました。
私たち一家は横浜に住んでおり、2歳前の息子は昼寝から起きたばかりで、おやつを食べ終えおもちゃで遊んでいました。
電話機が電源が入っていないことを知らせる警告音を鳴らしたことで、ようやく私は地震により停電してしまったことに気が付きました。
これまでに経験したことのない揺れと停電、停電からくる断水・・・
この日に起きた大きな地震とその後の原発事故により、これまでに守られてきた平和な日常は一気に非日常的なものに変わってしまいました。
(この日の出来事によって残酷にも初めて、これまでの日常が、いかに平和だったかということを知ることになりました。)
毎日繰り返し報道される地震と津波と原発のニュースは、直視できないほど恐ろしく、私の不安を感じ取る息子はわけもなく泣き続けていたために、また私も恐ろしく悲しい報道に耐えられずテレビを消して過ごしたほどです。
大きな失望感。押し寄せる無力感。人間の命って、どんなに簡単に危険に脅かされることになってしまうのだろう。。。 自分の力ではどんなに頑張ってもこれまでの平和な毎日は取り返すことはできないのだろうかと、あとからあとから湧いてくるネガティブな気持ちに何度となく押しつぶされそうになりました。
それでも、「子供を守りたい!」という不屈の願いがとにかく私を支え、前進する勇気をくれました。子供を守る、ただそれだけのために、私たち母子は親戚も知人もいない岡山にやってきました。
(到着して数日すると、震災後から続いていた頭痛や目の痛みは消え、そして何より心の中の不安が減り、私は私を取り戻すことができました。)
ここ「やすらぎの泉」でのシェア生活は、たくさんの恵みを私たち親子に運んでくれました。
都会では経験できない人とのつながりや(たった数か月で都会での一年分には匹敵するであろうたくさんの出会いに恵まれました)、複数の母子での家事や育児。
時には入居者同士でぶつかることもありましたが、真剣に話し合うことで、さらによい人間関係を築くことができるということも勉強できました。(社会では私はどちらかというと人との対立を避けるため、距離を持って接したり、「気まずくなるくらいなら」とうまくまとめてしまう傾向がありました。だから私にとっては脱皮のような大きな変化でした。シェアメイトさんに感謝です。)
何よりみんなで放射能の話をしたり、世間話をしたり、一緒に泣いたり笑ったり、本当に家族や親戚のような温かい環境の中で家事や育児を一緒にすることが、どんなに楽しく、そしてラク(笑)か!!
道の向こうには延藤牧師がいらっしゃって、いつも見守られ、受け入れていただけているという安心感があります。
おいでんせいのKご夫妻も、力強くサポートしてくださいます。
自転車があれば駅も買い物も、日常の生活はほとんど済ませられますし、保育園や幼稚園、小学校も遠くありません。
ここで芽生えたつながりとこの環境の中で暮らしたいと思い、来月から近くのアパートで生活を始めることにしました。
我が家は主人が横浜に残りたい、持ち家を手放したくないという気持ちですので、これからどれだけの年月を母子だけで送れるかわかりませんが、とにかく後悔のないよう、そして毎日明るく楽しくをモットーに和気での移住生活を開始したいと思っています。
そしてこれからもとにかく人とのつながりを大切に生きていきたい!
最近はとにかく人生にはそれが一番で、それさえあれば大丈夫という気持ちがしています。
「やすらぎの泉」での暮らしから、和気に移住を決めました。 Hさん
東京都の杉並区から疎開しております、
二歳の息子と4か月の娘を連れて、9月17日から、やすらぎの泉に滞在させていただいております。
3月の原発事故の時点では、政府やテレビの発表しか情報収集せず、普通に暮らしておりました。
しかし事故が収束せず、6月に出産予定でしたので、息子を連れて西のほうで出産しようか、とても迷ったのですが、知人も親類もおらず、知らない土地での出産、息子と赤ちゃんの世話は難しいと思い、結局、予定通り東京で出産しました。
出産後、時間もない中で情報収集したところ、東京もかなりの汚染が進んでいることを知り、愕然としました。
家から出ることも恐ろしくなり、ほとんど自宅で過ごしていました。
息子は夫が室内の遊び場へ連れて行っておりましたが、不安な気持ちがかなり伝わっていたのではと思います。東京では子育てはできない、疎開、移住しなくてはと思いました。
そのような状況の中、おいでんせぇ岡山さんの方で自主避難も受け入れてくださっていることを知り、早速連絡をしました。
初めての土地で、母子のみの疎開、また初めてお会いする方との共同生活ということで、色々と不安はありましたが、延藤さん、勝部さんご夫妻、そのほかのボランティアのスタッフの方たち、また先に疎開していた母子の方たちの、暖かく安心できる雰囲気に包まれて、ほっとして毎日を過ごすことが出来ています。
色々と不安な気持ちを話せたことも良かったと思います。
東京では呼吸をするのも不安でしたが、子供たちと外を普通に散歩できる、洗濯物を外に干せる、窓を開けて換気できる…普通の生活ができることがとても幸せに感じています。
また、地域のイベントに参加できたり、車で広々とした公園に連れて行っていただいたり、申し訳ないくらい、色々お世話になりっぱなしで、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
過ごさせていただいたのは短い間ですが、地域の雰囲気がとても良く、自然に溢れ、子育てにとても良い環境だと思い、10月9日より近隣にアパーるこトを借りとに決めました。
夫は仕事をすぐには辞められないため、しばらくは東京との二重生活になると思います。
今はお世話になるばかりで心苦しいのですが、ご縁をいただいたので、色々な方とつながって、子供たちの未来を守るために、お役に立ちたいと思っています。